最初の難関である散髪をクリアし、 フランスでの生活も順調に進んできました。 留学生活も残り3ヶ月になろうかというある日、 その不幸は突然に訪れたのでした。


グルノーブルの歯医者


その夜、私はアパートでシーフードスパゲティを作って食べていました。 スーパーの食料品コーナーで、ムール貝、小エビ、イカなどが混ざった「海の幸缶詰」 なるものを見付けたので、こいつは便利とばかりに買ってきたのです。 缶詰の中身をたっぷりのバターで炒め、白ワインをふってからスープを加え、 最後にゆで立ての麺にからめてレモンを絞ればできあがりです。簡単簡単。

できたてのスパゲティをはふはふ言いながら食べていると、 突然「ゴリ」と 嫌な音 がしました。どうやら缶詰の中に、ムールの貝殻が残っていたようです。 と同時に、左上の奥歯の内側にいや〜な感じが走りました。こ、これはもしかして…。

とりあえずはスパゲティを平らげ、 食後に洗面所の鏡で歯を確認しようとしたとき、私はある重大な事実に気付きました。 それは、 「壁にかかった鏡で上の奥歯を見ることはほとんど不可能である」 ということです。

下の奥歯なら口を大きく開けることで確認することができますが、 上の奥歯の内側を鏡で見ることは人間の顔の構造上無理があります。 口の中に入るような小さな鏡があれば合わせ鏡の要領で見ることができますが、 そんなものは持っていません。 仕方がないので舌先でつついてみたり、 指で触ったりして何とか様子を探ってみます。 …なんとなく以前よりもエッジが鋭くなっているような気がします。 あまり認めたくありませんが、 これはやはり詰め物がとれてしまったと考えるのが論理的でしょう。 困りました。

通常の海外旅行保険では歯に関するトラブルはカバーされませんが、 幸いなことに私はフランス政府給費留学生という肩書きで滞在しているので、 それ専用の社会保険に加入しています。もしかしたら歯もOKかもしれません。 スーツケースの中から「フランス政府給費留学生の手引」を取り出し、 仏和辞典を片手に読んでみると…。ありました。 ラッキーなことに、通常の歯科治療に関しては80%までカバーされると書いてあります。 あと3ヶ月で帰国するからその間だけなんとかしてくれと医者に言えば、 そんなに高い治療費を請求されることもないでしょう。

問題はどうやって歯医者を選ぶか、です。 一般内科なら、留学生センターと契約している医師のところへ行けばいいのですが、 歯科に関しては特定の指定医院はないようです。 ここはやはり歯医者選びの王道、 口コミ に頼るのがよいでしょう。 別に痛みはまったくないので急いでいるわけではありませんが、 一応念のため、研究所の人間に歯医者を紹介してもらうことにします。


「ゴリ」から約一週間が経ちましたが、いや〜な感じは消えません。 そろそろ腰を上げるときのようです。 「うちに来ている日本人が歯医者を探してると言っておいたから」 という同僚がくれた名刺を取り出し、予約の電話を入れることにします。

ぷるる〜 ぷるる〜 かちゃ

「もしもし」

「あ、もしもし、予約をお願いしたいんですけど」

「どうして?」

な、なんだ〜!? 「どうして」だって? そう来るか、普通?

予想外の質問に一瞬たじろいでしまいましたが、 ここで引き下がることもできないので急いで頭を巡らします。 …そう言えば名刺には「歯科・口腔科」と書いてありました。 きっとこの「どうして」は、どういう症状なのかを聞いているのでしょう。

「実はちょっと歯を見ていだきたくて…」

「なるほど、歯ですか。え〜と、それなら火曜日の18時でどうでしょう?」

症状を聞いているだろうという予想は当たっていたようです。 が、18時というのが少し引っかかります。 果たして夕方の6時過ぎまで開いているような歯医者が、 この 仕事をさぼるのに熱心な国・フランス において存在するのでしょうか? 外国語において最も難しいのは数字ですし、 もしかしたら聞き違いかもしれません。 念のため確認しておきましょう。

「火曜日の18時ですか? 18時ってことは、夕方の6時ですよね?」

「そうです。夕方の6時です。」

やはり合っているようです。 こっちにとっては遅くまで開いていてくれる方がむしろ好都合なので、 ここは素直に受け入れましょう。

「はい、火曜日の6時で結構です。」

「わかりました。お名前は?」

「タカハシです。 スペルは T A K A …」

「T A K A … ムッシュー・タカハシですね。 あれ、この名前は…もしかしたら XX さんの御紹介ですか?」

「あ、そうです、そうです。」

日本では五本の指に入るほどありふれた名字の高橋も、 フランスでは十分に特徴的です。 一度聞けば変わった名前ということですぐに思い出してもらえます。 国内にいるときは決して味わえなかった「珍しい名字の人の気分」が、 少しだけわかったような気がします。

「それでは火曜日に。さようなら。」

「さようなら。よろしくお願いします。」

これでとりあえず用意は整いました。あとは当日を待つのみです。


さて、いよいよ火曜日になりました。 いつもより少し早目に研究所を出て、 前日の夕方にあらかじめ住所を確認しておいた歯医者へと向かいます。 マンションの4階まで昇り、ドクター何々と書かれたドアの呼び鈴を押します。

がちゃ。

「ボンジュール、ムッシュー。こちらへどうぞ。」

なんと白衣を着た先生本人の登場です。 彼は入り口を入ってすぐの待合室を指すと、

「すぐですから、ここで待っていて下さい。」

と言って奥の方へ消へて行きました。 私は言われたとおりに待合室に腰を下ろし、部屋の中を見回します。 椅子があって、雑誌があって、観葉植物の鉢があってと、 日本の歯医者と同じようなものです。 椅子に座って自動車雑誌などをぱらぱらめくっていると、 前の患者と思われる人物が奥の方が出てきて帰って行く気配がしました。 と、すぐに待合室のドアが開いて、先生が顔を出します。

「お待たせしました。さあこちらへどうぞ。」

さあ、いよいよです。 床屋の場合は、髪型が原因で死んだやつはいない、 と覚悟を決めることができましたが、歯医者の場合はもうちょっと深刻です。 相手の言うことをちゃんと聞き取らないと、何が起こるかわかりません。 まずは落ち着いて相手をよく観察することにしましょう。

先生は穏やかで優しそうな男性で、年は60歳近いと思われます。 一般にフランス人は女性より男性の方が、 若い人より年配の人の方がゆっくりしゃべってくれるので、 これはかなりラッキーな点です。 紹介してくれた人があらかじめ聞いておいてくれたところによると、 この先生は英語はそれほど得意ではないそうですが、どうせこちらも 歯医者で使われる用語に関しては英語だろうがフランス語だろうが ほとんど知らないに等しいので、その点は問題になりません。

とは言うものの、 歯医者は上手く削ってなんぼのもの 、という冷やかな現実を考えると、 60歳という年齢に多少の不安がないこともありません。 いずれにせよ、もうすでに診察台の上に乗ってしまった以上、 先生の腕が落ちていないことを祈るばかりです。

「さて、どうしました?」

「左上の奥歯なんですが、なんか変な感じなんです。」

「なるほど。変な感じというのはどんな感じですか?」

「えーと…」

「電気が走るような感じですか?」

「いえ、そういう強い刺激や痛みはありません。 穴が空いたような感じというか… 詰め物がとれてしまったんじゃないかと思うんですが。」

「そうですか。それでは見てみましょう。 …うーん、外から見る限り特に異状はありませんねえ。 でも前歯に小さな虫歯があります。 とりあえず、左上奥と前の2ヶ所、レントゲンを撮ってみましょう。」

というわけで、レントゲン撮影です。

「ちょっと人差し指を…そう、そのまま押えていて下さい。 …はい、今度はこっち。…はい結構です。ではうがいして。 写真は5分くらいでできますから、ちょっと待っていて下さい」

待つことしばし。やがて小さな写真2枚を手にした先生が戻ってきました。 彼は私に写真を示しながら説明します。

「奥歯の方は何も問題ありませんね。 歯の内部組織は生きていますから、 治療してからしばらくすると違和感を感じることもあるんです。 あなたの場合はきっとそれでしょう。」

「ははあ、そうですか。(ほっ)」

「それから前歯ですが、こっちは初期の段階の虫歯ですね。」

「そうですか。実はあと3ヶ月で帰国することになっているんです。 ですからもし緊急度が低いようなら…」

「あ、そういうことならまだ余裕がありますよ。 保険のこともあるでしょうし、帰国なさってからで十分間に合うでしょう。」

というわけで、 初のフランス歯科体験は診察のみで全く何の治療もせずに終わりました。 かかった費用はしめて150フラン、約3000円でした。 金額的には大したことありませんし、 留学生センターに連絡してしかるべき手続きをとれば、 このうちの80%が戻ってくることになります。 歯の方も大したことなかったし、 結局は心配したほどのことはありませんでした。 めでたし、めでたし。

P.S.
「他人の不幸は蜜の味」とばかりに波乱を期待されていた方、 龍頭蛇尾に終わって済みません。


最終更新日 : 2006年6月19日