グルノーブルの床屋

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私は先日ついに、 長期外国滞在における最難関の1つをクリアしました。 何だと思います? 散髪です。

まずは店を選ばなくちゃいけません。 フランスの店は大抵男女両方を受け付けるのでその点は問題ないんですけど、 気取った店・庶民的な店・前衛的な店・店員の髪型がぶっ飛んでいる店 といろいろあります。 いつもロックを大音量でかけているのでてっきりバーだと思っていたら 実は床屋だった、 なんて店まであります。 さらに東洋人の髪を扱い慣れているかも問題です。 特に私の髪はばりばりのごわごわで、 日本人の美容師・ 理容師も扱いにくいと言うくらいですからなおさらです。 もしかしたら中には人種的な偏見を持っている人もいるかもしれません。 そう考えると結構心配になってくるのですが、 30過ぎた男がヘアスタイルで悩むのも何ですし (大抵の人は抜け毛を気にする年齢ですもんね)、 「髪型が原因で死んだ奴はいない」 と割り切ることにしました。

まず店ですが、 これは研究所の近くにある店に決めました。 ウィンドーに価格表が張り出してあって、 しかもでかでかと「学生20%引」と書いてあったので、 まあ気楽な感じの店だろうと思ったんです。 学生相手の店なら留学生も来るだろうし、 留学生の中には東洋人もいるでしょうから、 その点も安心です。 それに一度店の前を通ったとき、 客の髪をカットしている最中の店員と目が合ったのですが、 これが親切そうなおじさんだったのも気に入りました。

さて当日、 いよいよ意を決して店に向かいます。 ガラスのドアを押して店内に入り、 まずは「ボンジュール」と挨拶します (ヨーロッパ大陸では店に入ったとき、 客も店員もお互いに「こんにちは」と挨拶する習慣のようです。 ウィーンでもそうでした)。 まずは例のおじさんに向かって「予約は必要ですか?」と軽くジャブを入れ、 相手の反応をうかがいます。 おじさんはにっこり笑って答えてくれましたが、 このフランス語が聞き取れません。 仕方ないので 「フランス語は良く話せないので、もう一度お願いします」 と頼みます。 あ〜あ、フランスに来て以来、 この台詞を口にするのは何回目でしょう。 するとおじさん、 今度はゆっくりと 「別に必要ないけど、今はこっちのムッシューがいるから、 もう少し後で来てもらえますか? えーと、4時でどうでしょう?」 と言います。 今度は聞き取れました。 「OKです。 それじゃ4時にまた来ます。 さようなら」 と言って一度引き下がります。 戦いはまだ始ったばかりです。

取り合えず研究所に戻り、 時計を気にしながら仕事をします。 そわそわしているせいでなかなかはかどりません。 いよいよ4時です。 計算機の前を離れ、 再び店に向かいます。 ドアを開けて「ボンジュール」。 が、 店の中には誰もいません。 げ、どうなっているんだ? 4時というのは聞き間違いだったのか? と思ったところへ店の奥からおじさん登場です。 ほっ。

鏡の前に座ったところで 「どんな感じにしましょう?」 と聞かれます。 ここが一番の難所です。 日本語でさえも伝えるのが面倒なことを、 フランス語で言わなくてはなりません。 こうなると注文は、 自分の好みを伝えることよりも、 文章の簡単さの方が優先されるようになります。 まあいいさ、 髪型で死んだやつはいない。 「全体に1.5cmから2cmくらい切って下さい。 横は、 えーと、 耳が出るくらい」 という意味のことを何とか伝えます。 おじさんはうんうんとうなずいて、 「こんな感じ?」 と自分の耳のあたりを示します。 こっちもうんうんとうなずいて、 「そうそう、そんな感じ」 と答えます。 身振り手振りの偉大さをしみじみ感じます。 「シャンプーは?」 「いや、カットだけで」 「ウイ、ムッシュー」 カットが始まりました。

結論から言うと、 このおじさんは最初の印象通り、 なかなかいい人でした。 日本の床屋さんと同じように、 カットしながらいろいろ話しかけてきて、 こっちの下手なフランス語ももちゃんと聞いてくれます。

「で、お客さん、お国はどちら?」

「日本です」

「ああ、日本ですか。 一度行きたいと思ってるんですよねえ。 グルノーブルは初めて?」

「ええ。フランスも初めてです」

「学生さん?」

「いえ、研究者です」

「は?」

「計算機の研究者です。 すぐそこの研究所に来ています」

「あ、研究者ですか。へえ。 で、ここにはどのくらい滞在の予定ですか?」

という感じで会話とカットが進みます。 よしよし、 なかなかいい感じじゃないか。

「グルノーブルにも日本料理店があるんですよ。 お客さん、もう行ってみました?」

「いや、まだです」

「すぐ近くですよ。 でも内装は日本的じゃありません。 普通のレストランみたいな感じです」

リラックスしてきたせいで、 フランス語がだんだん良く聞き取れるようになってきます。

「私は以前カナダに行ったことがあるんですけどね、 そこで入った日本料理店は良かったなあ。 日本的な内装に日本的なテーブルで、 床に座るんですよ。で、 ちゃんとゲイシャがいて料理を運んで来るんです」

(おじさん、それは芸者じゃなくて仲居さんと言うんだよ) 「でも日本料理店って高いでしょ?」

「まあ、それなりにはね」

なんてことをやっているうちに、 カットが終わりました。 通常よりもちょっと短めで、 そのため髪がはねていますけど、 そこはジェルでおさえます。

「どんなもんでしょ?」

「結構です。(あ〜あ、後でムースかジェル買わなきゃ)」

あとはお金を払うだけです。 掲示してある価格表を覗いて、 値段を確認します。

「えーと、111フランですよね?」

「いえいえ、シャンプーなしですから、90フランです」

「あ、そうですか」

チーン、ガシャガシャ。

「ありがとうございました。またどうぞ。それからよいご滞在を!」

最後は握手までしてくれました。 ジェルで手がちょっとベタベタしてましたけど。 やっぱり外人慣れしている人だったようです。 よかったよかった。


最終更新日 : 2006年6月19日